当時、春からの就職を控えた学生だった。
伊丹のとなり、池田の下宿。
17日朝の地震は、徹夜で卒論を書いているところで、6畳一間の古い部屋(家賃1万9千円)は波を打ったように揺れた。横揺れ、縦揺れが長々続く。隣の部屋はちょうど長屋のはしっこ、震動が集中して壁が崩れ土埃で埋まる(住めなくなった)。
西宮と御影に3軒介助にいっているお宅があって、うち1人は行方不明との報。大阪から仲間とシャベルをもって電車を乗り継いで、探し出しにいった。
障がい者で車いすも使っていたから1階に住んでいて、行ったらそのアパート、1階は潰れて2階が前に飛び出るように傾いて下にきている。数時間叩いて壊して掘って、やっとベッドまで発見したけど、ご本人はいない。
結局、翌日自衛隊の人に機械で手伝ってもらって、探したらコタツの方で、見つかった。
亡くなっていた。
…
そのあと春まで被災地障害者センターというところで働いた。大阪の障害者救援本部が設けた一時避難所に、交替で入っていたこともある。
就職して東京にくると、オウムのサリン事件でもちきりで、神戸はずっと遠くなっていた。
彼女のほかにも、震災ではあと、6,433人の方が犠牲になった、という。
数だけになるのは恐ろしい。とてつもない人、一人ひとりの生活が、一瞬にして潰れたり、焼けたりした。
あらためて冥福を祈りたい。
そのあと、何度か引越しをしたけれど、家には必ず大きなシャベルを置いておくようにしている。
すぐに掘り出せるように。